ウエルベックのセロトニンの感想
このブログのデザインも変えたいけど変える時間がないかも。
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いわゆる正規雇用で働き始めて一年以上たつ。なにもうまくいかなかったが、社会経験が薄いからうまくいかないのかなあと一年目には考えていた。しかし社会経験を一年積んだいま言えるのは、社会経験など関係なくおれは向いていない。自信は日ごとになくなるし、そのことによってもともと卑屈だったパーソナリティはより悲惨な様相を呈し、プライベートもめろめろになっていく。
この「めろめろ」というのはいま老人ホームに入っている祖父が使う言葉で、よくわからない状態になっていくことを示す形容詞のようだ(彼は軽く認知症がでてきてとにかく「めろめろ」になってきたと説明してくれる)。「めろめろ」というと恋愛で狂っているさまを示す言葉だと思っていたが、もともとは祖父が使うような意味の言葉だったのだろうか?
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このまえESVで久々にライブがあって、小岩のブッシュバッシュというライブハウスでやったんだけど、なんかやけに音がよくて非常にやりやすかった。自分に自信がなくなっていても昔書いたリリックと練習したフロウは自信の量とは関係ないのでありがたい。しかし自分のラップで元気を取り戻すようなやつのステージングが果たしていいものと言えるのか。場合によると言えるね。でもできればもっと集中したい。
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本読むの不可能になってたのでkindle導入した。kindleなら読める読める。ウエルベックの『闘争領域の拡大』『セロトニン』を読みました。いまセールかも。
ウエルベックは現在の先進国の人間が抱える孤独というやつをアホほど真面目に突き詰めていく男で、とくに『セロトニン』はトーマス・マンの名作『トニオクレーゲル』を引き継いだ作品だった(プルーストや、同じマンでも『魔の山』と関連させられていることが多いが、おれはトニオだと思う。なぜならおれはプルーストも魔の山も知らず、トニオしか知らないので...)。
説明させてくれ。
『トニオクレーゲル』は以下のような話だ。あんまりイケてない少年時代を送っていた男=トニオが作家になり、イケてなかったゆえに大衆=凡人をバカにしまくった作家になっていたがなんか行き詰っていたので地元に帰ってみるよと画家の友人に相談する。そして実際今はだれも住んでない実家に帰ってなついな~とやっていると不審者として警官に捕まってしまう。誤解を解いて宿にもどると、そこではパーティが催されていて昔憧れていた地元の奴らがいたりして、「トニオじゃん!どうしたの?」と声をかけられないかな?と期待するも「そういうことはこの世では起こらないのだ」と、階段で一人うずくまる。そして町に戻り画家に「やっぱ凡人はダメだわ」と報告すると「お前が凡人なんだよ、その」とバッサリいかれてしまう。後日トニオが画家に送った手紙には「もうちょっと、マシな人間になろうと思います」と書いてあったとさ。
だいたいこんな話だったと思う。おれはこのトニオクレーゲルが大好きで、リリックにも使っています。しかしトニオは作家として暮らしているし、画家の友達もいるし、なによりつながりはないけどノスタルジーの対象としての幼年期を過ごした地元がまだあるんですよねえ。ではウエルベックの『セロトニン』では??
もう疲れてきたので細かくは書かないけど、『セロトニン』の主人公フロランは放浪の末にある人物と出会う。その人物はフロラン自身と非常に似通った問題を抱えているし、そのことが小説内で明示されている。この小説は一人称小説なので小説内で明示されたことは主人公のフロランも気づいていて、自分とよく似たその人物と友人になりうるかもしれないと胸をときめかせるが、結論としては「金はここに送ってくれ」と住所を渡されて終わる...。いや頑張れよフロラン!
いやフロランは頑張っている…
とかいう話がしたいのではない。トニオが出会ったのは、トニオを不審者として名指す警官であり、トニオの孤独をありふれたものとして指摘する友人なわけだ。フロランが出会ったのは?自分の抱えている問題を100%理解してくれるが、なにも言ってくれずただ金のやりとりを円滑に進める男だった。
この行き止まり感。セロトニンを読んでいる間中ずっとフロランの旅がどこかで報われるのではないかという気持ちを捨てられないでいるわけだが、この男との出会いが終わったことによって、ああもうこのままいくんだと知ることになる。こうやって比べてみると、トニオクレーゲルはとても暖かい世界にいたように思えてくる。トニオはそう思わないだろうけど。
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セロトニンの生成には腸が深くかかわってるらしい。おなかをあっためるアイテムを買おうと思う。レンジであっためるようなやつ。
電気の奴はすぐ壊れるからさ~
20250609
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