niaumu

紹介

ルックバックみたお

 

見ちゃった~

予告編みて、きれいなピアノが鳴ってて、これみたら絶対泣く、見てみるか~と思っていざみてみたら京本がおうち出てくるシーン(前半)でもう泣いた。そのあともことあるごとに泣いた。

昔は毎日泣いてたけど、最近は暮らしの中で泣くことがほとんどなくて、でも感動系のフィクションおっかぶるとすぐほっぺたを水がスーッと流れていくから感動系のフィクションの情報を得ると「これは...泣くな...」って見立て始めてしまう。泣くことへのちょっとしたワクワク。「泣きの文法さえ整ってれば人間は泣くんだから「泣ける」ってのは大したことじゃない」という言説があるが、泣きの文法が整ってれば泣けるというのは本当なのか、こんどその手の作品で試してみたい。

なんの話だ。


非常な現実に対してフィクションは無力であるという命題に対して「そりゃそうじゃろ」という気持ちしかおれは持てないが、それはフィクションへの思いが弱いとかいうことではなくて例えば石ころの位置を変えるような物理的な力をフィクションはもたないからだ。しかし『無能の人』とか『よつばと!』を読んだ人が石を拾うことはあるわけだが、それをもってフィクションが石を動かしたとは言わないだろう。フィクションが動かすのはつねに人間だ。この前とある川に行ったのだが、その道すがら無人販売所があって売られているのは野菜ではなくて石で、5万円とか値付けしてあるのにもかかわらず数か月以上放っておかれたような荒れ具合だった。

なんの話だ。


認められて帰り道にどんどん高ぶってバカ走りしていくシーンいいよね。漫画もよかったけど映画のしつこいくらいぶにゅんぶにゅんとスキップだか走ってんだかジャンプしてんだかを繰り返してAKIRAばりのターン(??)ぶちかます過剰さは全体の泣き演出の過剰さを余裕ですっぱ抜く勢いだった(??)。でも自分が気になったのは小学生の二人が出会わなかったverの世界で足を折った藤野が憧れの先生であることに気づいた京本がそのことを伝えると藤野が「最近また描き始めたんだよね~連載決まったらアシスタントやってよ」と言ってしまうシーンで、このジョギング藤野が漫画描いてるワケなどなく、京本にファンであると告げられたのがうれしすぎて今も漫画作ってんだよね~とうそぶいてしまう小学生藤野とまったく同じことをやっているのだジョギング藤野は。ちゃんと見てくれる人がいればいつでも漫画を描きたい藤野は漫画に関してかなり自信がないキャラクターとして描かれているし、京本といるときにやたらと虚勢を張っているのもそのあらわれだ。だからこそ、連載開始時に京本が離脱しても漫画を描き続けるところに成長を感じられるし、京本との共同制作していたころの輝いた表情が失われてクールになっていくとこも味わい深い→キャリアを得て自信も得たが、昔のきらめきはもうない...がそれが一概に悪いわけでもない。

うーん?こういうことが書きたいのか?


ルックバックは短編でやることが明確だから藤本タツキの露悪的だったり冗長的な部分は極力カットされていて、結果としてすごく上品なものになっている。藤野と京本が超人的なクリエイターであることや、京アニ事件と結びつけたフィクションが現実に対して無力なのか?という問いなどは、藤本タツキにしてはすこしナイーブ(この言葉がおかしければ、真面目過ぎる、でもいい。コミックでまじめな顔して問うて面白いか?というタイプなん)じゃないかという印象も受けた。もっと変な冗談とか入れてひねくれた描写にしてなかったっけと思う。藤本タツキってもっと照れ屋...というか変な描写入れたほうが印象深くなるってことにけっこうこだわるタイプだったと思うのでここについては意外だなという気持ちをずっと持っていた。

でも一番大事なところはちゃんとひねってて、四コマ漫画を時空を超えてやり取りするときの、漫画が、は?なにこれ?というヘンテコ漫画で、でもそのヘンテコ漫画こそがふたりにとって一番大事なもので、しかもお互いはそれを相手に見せようとすら思ってない。けど偶然見てしまって、それで人生が動いてしまう。あの漫画で。でもあのへんな漫画がすごく大事な位置にちゃんとおかれていることが、この話全体をまばゆく輝かせていると思う。


わお

疲れてるとダラダラTwitterみてYouTubeみて終わってしまうなあ

っていうか疲れてるのとは別にいつのまにかそういうのを見るのが習慣づけられてんだね

可処分時間は正直ぜんぜんある


おなしらせ

おなしの活動をお知らせするメールを送ります

onashium@gmail.com に「おなしらせ希望」とかなんかそういうかんじのメールを送ってください

そろそろたくさんの的を出す予定です そのお知らせがくる予定です

しっこ話

 NRQ見てきました。マジ美しかったぜ。

NRQのかっこいい動画はこちら



茨城県のつくば市に見にいきました。


茨城県のつくば市には以前たのまれてラップをしにいったこともありやしたねえ。

懐かしいでヤンス。
そこでねえ、ESVのみんなといたんでゲス。
そしたら、そこに居合わせた知らない人Aに「あなただけ働いてないでしょう」と言われたんだぴょん。

就業時間は短めとはいえ一応働いてはいたのだから、今思えば否定すればよかった…っていうかなんでそんなこと言われたんだろう?失礼すぎるだろ。
でもね、翌日Aとあったら謝ってくれたよ。酔っぱらって失礼を…ってね。

でも、おれは許さなかった。っていうかその場では謝罪を受け入れたけど、のちのち知り合いに「こういう失礼なことをされた」というエピソードとしてしゃべりまくった。最悪すぎる。喋っている時、おれはAがおれに謝罪したことすら忘れていたのだ。なんと都合のいいことでしょう。

そしたら、今回NRQのライブがあった場所にもその人がいたのさ。まあもう数年前なので向こうはこっちのことを忘れていると思うし、おれも相手の名前を忘れたのでふつうに知らん顔をしていた。
そこで尿意がおれを襲う。バチン!おれは膀胱のうずきに完全にノックアウトされてしまう。「トイレはどこですか」と受付の人に聞くと、その近くにいたAがすかさず「こっちですよ!」と教えてくれた。

おれはAをこの時、はじめて許せたのかもしれない。


なんかインターネットっぽい文章だな。
インターネットっぽい文章だな、と、自己指摘してみること。そうすることで、ちょっと違った立ち位置を、見慣れた風景を微細にズラし、リズムと戯れてみること。ことことスープを、煮込むこと。

ねむ

本いっぱい買っちゃった。
読めるかな?
わかんね~

押井守のパトレイバー2の演出ノートを復刊ドットコムから買った。
あと電脳コイルの企画書。
あとアメリカの反知性主義。
あとハイパーテキスト。

ぜんぜん読んでなし!

いや電脳コイル企画書は読んだ。面白かったデス。
設定からぶわ~っと世界が想像できるこのかんじ、「映像研には手を出すな」はかなりすごいんだなと逆輸入的に思うが、つまりこの企画書もかなりしっかり当時の勢いを感じさせるものになっている。
「コイル」はもともとキャラクターだったわけだが、結果として「電脳コイル」という、肉体と電脳体がズレていく現象を指す言葉になっていった。すごい変化だ。そもそもわれわれの世界のコイルがなんなのかもよくわからない。

電脳コイル見たいな。

はい

 終わることがおおまかに確定しました

突然ですねいつも

さみしいよ、ほんと

さむいなか書いている

 沖縄のことを書きます


2月でも泳げるんだ~海 泳いだ海は楚辺ビーチ ぐしちゃん浜 だにょ

魚もぽよぽよ泳いでおった。当然だが友好的な魚などはいないので冷めた関係だ。ぼーっとしてるのか知らん振りしているのかぎりぎりまで逃げない奴もいるが、とくに親愛の気持ちはないが、なんかいる~というちょっとした愉しみと、だからといってどうもこうもないというのがいいね。一方で水質がたとえば千葉館山の海と比べてすごい綺麗かというとよくわからんな。日によるかな。まあどの海もいいよ。沖縄の海の景観はすごかったな。浜に草原がなびいてたりするし、意味わからん形の岩もある。砲撃によって削れたという話も聞いた。

海に沈む夕日見てて、緑の光線みえね~かな~と思ったが無だった。ていうかやはり水平線近辺は雲があり、そこに太陽が隠れてしまう。「夕日ふたつ」って見たことないいまだに。ただ夕日の残りで空がやけて、その光を海が反射してぼや~っとくらい暖色で浜が照らされて、なんじゃと思って「海がレフ板みたいになってるんだな」といったらみんな「海がレフ板みたいになってるんだな」と繰り返していた。やはりヒップホップミュージックをやっている人間はパクりぐせがついている。

じっさい海がレフ板みたいになってたからね。


泊まった宿は縁側やら外テーブルやらのんびりできる外側が充実しており、すべてに灰皿がおいてあって最強だった。しかし日常的にこうだったらヘビースモーカーになって速攻禁煙外来が目に見えるので逆になくていいかもしれん。いろんないいがあるわな。


ライブについては反省会になってしまうのであまり書きたくないところも多い。こんかいはライブ用にミックスというものをやってみるかとやったらすごいことになってしまって大変であった。しかしそのなかで社交もできたし、豊かなイベントだった。コモンズの黒糖ラテが仰天にうまかった。感謝感謝ですMCウクダダとMC i know。i knowには感動したのでそのことを伝えたらウケてた。


あと向こうであった人に投資の話を聞かれたので、投資で資産を増やすってことは独立した力を持つことでもある一方で資本家になるってことなのでアンビバレンスであるってことをすごく強調したうえでおれの思うベターな選択肢を伝えたら最終的に「オルカン!オルカンね!」っていっぱい人がいるところで大声で確認されてしまって、完全におれが馬脚をあらわした。


あとごはんね。いろいろあるよ...いろいろ食べた。

アイスはいろいろこっちにない銘柄がある。ブルーシールのアイスも160円とかで買えるからモリモリ食べた。ウベとピスタチオの二色バーアイスがよかった。
弁当文化もはずせん。タコライスのとかちゃんぷるとか。しかしすごいヒットはなかったな今回は。タイミングが難しかった。でも深夜2時にさまよって出会ったむんじゅる弁当はふつうにありがたかった。茶色かった。
あとタコスとソーキそばとA&W(もとはルートビア(湿布味の飲み物)スタンドだったらしいハンバーガーショップ。駐車場で食べるサービスがある??)とターム(いも 田芋)
まだまだ気合いで食べれることがわかった。
居酒屋は安い。

壺屋のあたりの異常な坂はおもしろかった。生きてるだろ道が。


向こうは20度以上あって、帰ってきたら雨降ってて2度とかで終わった。

チーン

 人といろいろ話したのだが、前回の記事においておれは国家と市民を完全に密着した主体として扱っていることがわかった。それは半分は必要なことだといまでも思うが、半分は間違っていた。全部密着させて話してたら、そもそもおれが話す必要が無~

この国や世界がこれまでどのような道を歩みこれからどういう選択をしようと、気にいらないことについては拒絶をするべきだ。当たり前すぎて、ワロタ、ワロタ…

でもまあそういう当たり前のことをなんで書けなかったのかを考えてみるか...ポク...ポク...


(前提としておれは社会の出来事に対して共感する力が薄く、そのうしろめたさが文章をあいまいにさせた部分があると思う。このことについてはしかし今回は混乱を避けてかかないことにする。)

多分前回の記事は書き方を間違えた。

おれが前回書いたのは、朝鮮半島が代理戦争によって引き裂かれていくのを横目に日本は朝鮮戦争における特需で儲け経済的発展を遂げたのであって、いまのイスラエルのジェノサイドの下地をつくった軍事的な関係を構築する際に潤ったドイツとまったくおなじだし、おなじだからのんきに批判できないよな、ということ。


のんきに間違えてるね、確かに。張り付けた記事とも真逆の結論になってるし。「のんきに批判できない」のあたりを打ち消してこう付け加えるべきだ。


特需で豊かになったから倫理的判断を放棄するべきではない。われわれは戦争に対して直接的な参加を避けただけで、批判することを怠ってきた。

戦後の復興は尊いものなのかもしれんが、そこに戦争が絡んでたこと批判できなかったら焦土にされたことの肯定になってしまわないか。焦土にされたことを肯定したくない。朝鮮半島をB29が飛び回ってたってワケ。

倫理を放棄するのであれば、金儲けの構造守るためなら虐殺も許容するって明確に示すべき。そういう意味では「虐殺やレイプなんて20世紀ではどこの国でもやってた」みたいな大日本帝国擁護派の意見は一貫性はあるのかもしれない。


でもそれ自分や大事な人がレイプされたり殺されるときに言えるのか?

「仕方ないよな、どこでもやってることだし」。おれは言えね~。

この国が侵略した国々の人も、この国に爆弾がふってきたときの人たちも言えなかったと思う。