20250624
自分が書く文章にタイトルなんかつけるのは面倒だ。おれにとって文章はそういうかったるさを全部無視して、適当にコネコネやってると出来上がる文字通りパイル・オブ・シット。横書きは下に、縦書きは左に進んでいくが、上に積もっていくような書き文字の言語もあるのだろうか...?
みたいなとりとめもない文章を書いていても仕方がない!っていうか、文章文章言っておきながら自分は文章に全然自信がない。うまく書けたとおもうこともほとんどない!けっきょくブログに飽きたこともあり、とんと文章と関係ない暮らしになってしまってなんとなく寂しいナ。
そんな中、トーベヤンソンニューヨークのメンバー(であることだけを紹介されるのは珍しい気がする。どうなのか、実際は)唐木元氏が書いてると知って気になっていたのだがkindleセールになっていたのでついに読んでしまった「文章の書き方」本。
新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング
文章の基礎を構築するためのメソッド「構造シート」にはじまり、登場する無数のテクニックは全て「完読」のため。読まれなきゃ意味ねえってワケ。読まれなくてもいーんだと思ってきた自分とはあまりにも遠いところにある本だね。
「読まれなくてもいーんだ」には理由がある。だらだらうじうじやたらと時間がかかりながら意味の分からない文章を書くことは、自分の満足のためにあった。おれは結局文章もラップも絵もなんもかんも自分をちょっと満足させるためにやっているに過ぎず、それだけできていればよかった。自分自分自分。だから人のやってることに全然興味ないし、そこから自分を広げていくみたいな発想もない。何人かのショックを受けてしまった作家とか友達との遊びをソースにダラダラやってりゃ楽しいや。
だったはずなのにとくになんにもしなくなってるのは、加齢が一番でかい。次は労働。わかっていたことだが、わかっていても意味はない。時間も体力もなくなり、なぜか自信もなくなってしまった。この半年は正直あまりにもひどい、がこの話にも意味はない。なぜなら加齢も労働もあるていどは避けられないものだからだ。このままではクソ下らん文章をたまに書く、程度の遊びすら、しなくなってしまう。
あらゆる人間が知っていて、半分くらいの人間は目を背けている真実から、ここでようやく逃げられないことに気がつく。
他人がいないと遊べすらしない。読まれなくてもいーんだでは、だめなのだ...。ある種の局面においては。つまり、自分の満足なんかにぜんぜん興味がなくなってしまったような時には。
書かせてもらいましょうか、構造シートとやら...!
(この文章を書く際に、構造シートを、書かなかった...)