niaumu

紹介

次からがんばります

 自分が書く文章にタイトルなんかつけるのは面倒だ。おれにとって文章はそういうかったるさを全部無視して、適当にコネコネやってると出来上がる文字通りパイル・オブ・シット。横書きは下に、縦書きは左に進んでいくが、上に積もっていくような書き文字の言語もあるのだろうか...?


みたいなとりとめもない文章を書いていても仕方がない!っていうか、文章文章言っておきながら自分は文章に全然自信がない。うまく書けたとおもうこともほとんどない!けっきょくブログに飽きたこともあり、とんと文章と関係ない暮らしになってしまってなんとなく寂しいナ。

そんな中、トーベヤンソンニューヨークのメンバー(であることだけを紹介されるのは珍しい気がする。どうなのか、実際は)唐木元氏が書いてると知って気になっていたのだがkindleセールになっていたのでついに読んでしまった「文章の書き方」本。

新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング


文章の基礎を構築するためのメソッド「構造シート」にはじまり、登場する無数のテクニックは全て「完読」のため。読まれなきゃ意味ねえってワケ。読まれなくてもいーんだと思ってきた自分とはあまりにも遠いところにある本だね。

「読まれなくてもいーんだ」には理由がある。だらだらうじうじやたらと時間がかかりながら意味の分からない文章を書くことは、自分の満足のためにあった。おれは結局文章もラップも絵もなんもかんも自分をちょっと満足させるためにやっているに過ぎず、それだけできていればよかった。自分自分自分。だから人のやってることに全然興味ないし、そこから自分を広げていくみたいな発想もない。何人かのショックを受けてしまった作家とか友達との遊びをソースにダラダラやってりゃ楽しいや。

だったはずなのにとくになんにもしなくなってるのは、加齢が一番でかい。次は労働。わかっていたことだが、わかっていても意味はない。時間も体力もなくなり、なぜか自信もなくなってしまった。この半年は正直あまりにもひどい、がこの話にも意味はない。なぜなら加齢も労働もあるていどは避けられないものだからだ。このままではクソ下らん文章をたまに書く、程度の遊びすら、しなくなってしまう。


あらゆる人間が知っていて、半分くらいの人間は目を背けている真実から、ここでようやく逃げられないことに気がつく。

他人がいないと遊べすらしない。読まれなくてもいーんだでは、だめなのだ...。ある種の局面においては。つまり、自分の満足なんかにぜんぜん興味がなくなってしまったような時には。


書かせてもらいましょうか、構造シートとやら...!

(この文章を書く際に、構造シートを、書かなかった...)

ウエルベックのセロトニンの感想

 このブログのデザインも変えたいけど変える時間がないかも。

//

いわゆる正規雇用で働き始めて一年以上たつ。なにもうまくいかなかったが、社会経験が薄いからうまくいかないのかなあと一年目には考えていた。しかし社会経験を一年積んだいま言えるのは、社会経験など関係なくおれは向いていない。自信は日ごとになくなるし、そのことによってもともと卑屈だったパーソナリティはより悲惨な様相を呈し、プライベートもめろめろになっていく。

この「めろめろ」というのはいま老人ホームに入っている祖父が使う言葉で、よくわからない状態になっていくことを示す形容詞のようだ(彼は軽く認知症がでてきてとにかく「めろめろ」になってきたと説明してくれる)。「めろめろ」というと恋愛で狂っているさまを示す言葉だと思っていたが、もともとは祖父が使うような意味の言葉だったのだろうか?

//

このまえESVで久々にライブがあって、小岩のブッシュバッシュというライブハウスでやったんだけど、なんかやけに音がよくて非常にやりやすかった。自分に自信がなくなっていても昔書いたリリックと練習したフロウは自信の量とは関係ないのでありがたい。しかし自分のラップで元気を取り戻すようなやつのステージングが果たしていいものと言えるのか。場合によると言えるね。でもできればもっと集中したい。

//

本読むの不可能になってたのでkindle導入した。kindleなら読める読める。ウエルベックの『闘争領域の拡大』『セロトニン』を読みました。いまセールかも。

ウエルベックは現在の先進国の人間が抱える孤独というやつをアホほど真面目に突き詰めていく男で、とくに『セロトニン』はトーマス・マンの名作『トニオクレーゲル』を引き継いだ作品だった(プルーストや、同じマンでも『魔の山』と関連させられていることが多いが、おれはトニオだと思う。なぜならおれはプルーストも魔の山も知らず、トニオしか知らないので...)。

説明させてくれ。

『トニオクレーゲル』は以下のような話だ。あんまりイケてない少年時代を送っていた男=トニオが作家になり、イケてなかったゆえに大衆=凡人をバカにしまくった作家になっていたがなんか行き詰っていたので地元に帰ってみるよと画家の友人に相談する。そして実際今はだれも住んでない実家に帰ってなついな~とやっていると不審者として警官に捕まってしまう。誤解を解いて宿にもどると、そこではパーティが催されていて昔憧れていた地元の奴らがいたりして、「トニオじゃん!どうしたの?」と声をかけられないかな?と期待するも「そういうことはこの世では起こらないのだ」と、階段で一人うずくまる。そして町に戻り画家に「やっぱ凡人はダメだわ」と報告すると「お前が凡人なんだよ、その」とバッサリいかれてしまう。後日トニオが画家に送った手紙には「もうちょっと、マシな人間になろうと思います」と書いてあったとさ。

だいたいこんな話だったと思う。おれはこのトニオクレーゲルが大好きで、リリックにも使っています。しかしトニオは作家として暮らしているし、画家の友達もいるし、なによりつながりはないけどノスタルジーの対象としての幼年期を過ごした地元がまだあるんですよねえ。ではウエルベックの『セロトニン』では??

もう疲れてきたので細かくは書かないけど、『セロトニン』の主人公フロランは放浪の末にある人物と出会う。その人物はフロラン自身と非常に似通った問題を抱えているし、そのことが小説内で明示されている。この小説は一人称小説なので小説内で明示されたことは主人公のフロランも気づいていて、自分とよく似たその人物と友人になりうるかもしれないと胸をときめかせるが、結論としては「金はここに送ってくれ」と住所を渡されて終わる...。いや頑張れよフロラン!

いやフロランは頑張っている…

とかいう話がしたいのではない。トニオが出会ったのは、トニオを不審者として名指す警官であり、トニオの孤独をありふれたものとして指摘する友人なわけだ。フロランが出会ったのは?自分の抱えている問題を100%理解してくれるが、なにも言ってくれずただ金のやりとりを円滑に進める男だった。

この行き止まり感。セロトニンを読んでいる間中ずっとフロランの旅がどこかで報われるのではないかという気持ちを捨てられないでいるわけだが、この男との出会いが終わったことによって、ああもうこのままいくんだと知ることになる。こうやって比べてみると、トニオクレーゲルはとても暖かい世界にいたように思えてくる。トニオはそう思わないだろうけど。

//

セロトニンの生成には腸が深くかかわってるらしい。おなかをあっためるアイテムを買おうと思う。レンジであっためるようなやつ。

電気の奴はすぐ壊れるからさ~

きみの色

 https://note.com/fukk_deth/n/n2b51501b89cd


映画を見たあと、ネットで文章探していてみつけました。おもしろかった。

れいのごとく

 ま~たホームページ作っちゃった

この前会った友達に「君がなにやってるかわかるようにして」と言われたので、とりあえず枠組みだけ作った。過去作から最近のまでどかどか載せてカタログっぽい感じにする。

ホームページを作るのは楽しい。ぜんぜんコードを勉強する気がないから、適当にググって出てきたものや無料のテンプレを切り貼りして求めてるものができたらラッキー。この実力とまったく関係ないくだらない感じがいい。カタログっぽい感じにすると言ったが、リストをきちんと整列させるのがどうしてもできなかったので、作品が増えれば増えるほど汚い感じの並び方になる。並び方がめちゃくちゃすぎてわけわからなくなるレベルであればカッコいいと思うが、そこまでではない。しかしその中途半端さをともないつつ、たまにうまくいったりするのがいい。

今回わかったのは、フォントを細くするとかっけーということで、このブログは太すぎるな。

ルックバックみたお

 

見ちゃった~

予告編みて、きれいなピアノが鳴ってて、これみたら絶対泣く、見てみるか~と思っていざみてみたら京本がおうち出てくるシーン(前半)でもう泣いた。そのあともことあるごとに泣いた。

昔は毎日泣いてたけど、最近は暮らしの中で泣くことがほとんどなくて、でも感動系のフィクションおっかぶるとすぐほっぺたを水がスーッと流れていくから感動系のフィクションの情報を得ると「これは...泣くな...」って見立て始めてしまう。泣くことへのちょっとしたワクワク。「泣きの文法さえ整ってれば人間は泣くんだから「泣ける」ってのは大したことじゃない」という言説があるが、泣きの文法が整ってれば泣けるというのは本当なのか、こんどその手の作品で試してみたい。

なんの話だ。


非常な現実に対してフィクションは無力であるという命題に対して「そりゃそうじゃろ」という気持ちしかおれは持てないが、それはフィクションへの思いが弱いとかいうことではなくて例えば石ころの位置を変えるような物理的な力をフィクションはもたないからだ。しかし『無能の人』とか『よつばと!』を読んだ人が石を拾うことはあるわけだが、それをもってフィクションが石を動かしたとは言わないだろう。フィクションが動かすのはつねに人間だ。この前とある川に行ったのだが、その道すがら無人販売所があって売られているのは野菜ではなくて石で、5万円とか値付けしてあるのにもかかわらず数か月以上放っておかれたような荒れ具合だった。

なんの話だ。


認められて帰り道にどんどん高ぶってバカ走りしていくシーンいいよね。漫画もよかったけど映画のしつこいくらいぶにゅんぶにゅんとスキップだか走ってんだかジャンプしてんだかを繰り返してAKIRAばりのターン(??)ぶちかます過剰さは全体の泣き演出の過剰さを余裕ですっぱ抜く勢いだった(??)。でも自分が気になったのは小学生の二人が出会わなかったverの世界で足を折った藤野が憧れの先生であることに気づいた京本がそのことを伝えると藤野が「最近また描き始めたんだよね~連載決まったらアシスタントやってよ」と言ってしまうシーンで、このジョギング藤野が漫画描いてるワケなどなく、京本にファンであると告げられたのがうれしすぎて今も漫画作ってんだよね~とうそぶいてしまう小学生藤野とまったく同じことをやっているのだジョギング藤野は。ちゃんと見てくれる人がいればいつでも漫画を描きたい藤野は漫画に関してかなり自信がないキャラクターとして描かれているし、京本といるときにやたらと虚勢を張っているのもそのあらわれだ。だからこそ、連載開始時に京本が離脱しても漫画を描き続けるところに成長を感じられるし、京本との共同制作していたころの輝いた表情が失われてクールになっていくとこも味わい深い→キャリアを得て自信も得たが、昔のきらめきはもうない...がそれが一概に悪いわけでもない。

うーん?こういうことが書きたいのか?


ルックバックは短編でやることが明確だから藤本タツキの露悪的だったり冗長的な部分は極力カットされていて、結果としてすごく上品なものになっている。藤野と京本が超人的なクリエイターであることや、京アニ事件と結びつけたフィクションが現実に対して無力なのか?という問いなどは、藤本タツキにしてはすこしナイーブ(この言葉がおかしければ、真面目過ぎる、でもいい。コミックでまじめな顔して問うて面白いか?というタイプなん)じゃないかという印象も受けた。もっと変な冗談とか入れてひねくれた描写にしてなかったっけと思う。藤本タツキってもっと照れ屋...というか変な描写入れたほうが印象深くなるってことにけっこうこだわるタイプだったと思うのでここについては意外だなという気持ちをずっと持っていた。

でも一番大事なところはちゃんとひねってて、四コマ漫画を時空を超えてやり取りするときの、漫画が、は?なにこれ?というヘンテコ漫画で、でもそのヘンテコ漫画こそがふたりにとって一番大事なもので、しかもお互いはそれを相手に見せようとすら思ってない。けど偶然見てしまって、それで人生が動いてしまう。あの漫画で。でもあのへんな漫画がすごく大事な位置にちゃんとおかれていることが、この話全体をまばゆく輝かせていると思う。


わお

疲れてるとダラダラTwitterみてYouTubeみて終わってしまうなあ

っていうか疲れてるのとは別にいつのまにかそういうのを見るのが習慣づけられてんだね

可処分時間は正直ぜんぜんある


おなしらせ

おなしの活動をお知らせするメールを送ります

onashium@gmail.com に「おなしらせ希望」とかなんかそういうかんじのメールを送ってください

そろそろたくさんの的を出す予定です そのお知らせがくる予定です

しっこ話

 NRQ見てきました。マジ美しかったぜ。

NRQのかっこいい動画はこちら



茨城県のつくば市に見にいきました。


茨城県のつくば市には以前たのまれてラップをしにいったこともありやしたねえ。

懐かしいでヤンス。
そこでねえ、ESVのみんなといたんでゲス。
そしたら、そこに居合わせた知らない人Aに「あなただけ働いてないでしょう」と言われたんだぴょん。

就業時間は短めとはいえ一応働いてはいたのだから、今思えば否定すればよかった…っていうかなんでそんなこと言われたんだろう?失礼すぎるだろ。
でもね、翌日Aとあったら謝ってくれたよ。酔っぱらって失礼を…ってね。

でも、おれは許さなかった。っていうかその場では謝罪を受け入れたけど、のちのち知り合いに「こういう失礼なことをされた」というエピソードとしてしゃべりまくった。最悪すぎる。喋っている時、おれはAがおれに謝罪したことすら忘れていたのだ。なんと都合のいいことでしょう。

そしたら、今回NRQのライブがあった場所にもその人がいたのさ。まあもう数年前なので向こうはこっちのことを忘れていると思うし、おれも相手の名前を忘れたのでふつうに知らん顔をしていた。
そこで尿意がおれを襲う。バチン!おれは膀胱のうずきに完全にノックアウトされてしまう。「トイレはどこですか」と受付の人に聞くと、その近くにいたAがすかさず「こっちですよ!」と教えてくれた。

おれはAをこの時、はじめて許せたのかもしれない。


なんかインターネットっぽい文章だな。
インターネットっぽい文章だな、と、自己指摘してみること。そうすることで、ちょっと違った立ち位置を、見慣れた風景を微細にズラし、リズムと戯れてみること。ことことスープを、煮込むこと。