20241009
見ちゃった~
予告編みて、きれいなピアノが鳴ってて、これみたら絶対泣く、見てみるか~と思っていざみてみたら京本がおうち出てくるシーン(前半)でもう泣いた。そのあともことあるごとに泣いた。
昔は毎日泣いてたけど、最近は暮らしの中で泣くことがほとんどなくて、でも感動系のフィクションおっかぶるとすぐほっぺたを水がスーッと流れていくから感動系のフィクションの情報を得ると「これは...泣くな...」って見立て始めてしまう。泣くことへのちょっとしたワクワク。「泣きの文法さえ整ってれば人間は泣くんだから「泣ける」ってのは大したことじゃない」という言説があるが、泣きの文法が整ってれば泣けるというのは本当なのか、こんどその手の作品で試してみたい。
なんの話だ。
非常な現実に対してフィクションは無力であるという命題に対して「そりゃそうじゃろ」という気持ちしかおれは持てないが、それはフィクションへの思いが弱いとかいうことではなくて例えば石ころの位置を変えるような物理的な力をフィクションはもたないからだ。しかし『無能の人』とか『よつばと!』を読んだ人が石を拾うことはあるわけだが、それをもってフィクションが石を動かしたとは言わないだろう。フィクションが動かすのはつねに人間だ。この前とある川に行ったのだが、その道すがら無人販売所があって売られているのは野菜ではなくて石で、5万円とか値付けしてあるのにもかかわらず数か月以上放っておかれたような荒れ具合だった。
なんの話だ。
認められて帰り道にどんどん高ぶってバカ走りしていくシーンいいよね。漫画もよかったけど映画のしつこいくらいぶにゅんぶにゅんとスキップだか走ってんだかジャンプしてんだかを繰り返してAKIRAばりのターン(??)ぶちかます過剰さは全体の泣き演出の過剰さを余裕ですっぱ抜く勢いだった(??)。でも自分が気になったのは小学生の二人が出会わなかったverの世界で足を折った藤野が憧れの先生であることに気づいた京本がそのことを伝えると藤野が「最近また描き始めたんだよね~連載決まったらアシスタントやってよ」と言ってしまうシーンで、このジョギング藤野が漫画描いてるワケなどなく、京本にファンであると告げられたのがうれしすぎて今も漫画作ってんだよね~とうそぶいてしまう小学生藤野とまったく同じことをやっているのだジョギング藤野は。ちゃんと見てくれる人がいればいつでも漫画を描きたい藤野は漫画に関してかなり自信がないキャラクターとして描かれているし、京本といるときにやたらと虚勢を張っているのもそのあらわれだ。だからこそ、連載開始時に京本が離脱しても漫画を描き続けるところに成長を感じられるし、京本との共同制作していたころの輝いた表情が失われてクールになっていくとこも味わい深い→キャリアを得て自信も得たが、昔のきらめきはもうない...がそれが一概に悪いわけでもない。
うーん?こういうことが書きたいのか?
ルックバックは短編でやることが明確だから藤本タツキの露悪的だったり冗長的な部分は極力カットされていて、結果としてすごく上品なものになっている。藤野と京本が超人的なクリエイターであることや、京アニ事件と結びつけたフィクションが現実に対して無力なのか?という問いなどは、藤本タツキにしてはすこしナイーブ(この言葉がおかしければ、真面目過ぎる、でもいい。コミックでまじめな顔して問うて面白いか?というタイプなん)じゃないかという印象も受けた。もっと変な冗談とか入れてひねくれた描写にしてなかったっけと思う。藤本タツキってもっと照れ屋...というか変な描写入れたほうが印象深くなるってことにけっこうこだわるタイプだったと思うのでここについては意外だなという気持ちをずっと持っていた。
でも一番大事なところはちゃんとひねってて、四コマ漫画を時空を超えてやり取りするときの、漫画が、は?なにこれ?というヘンテコ漫画で、でもそのヘンテコ漫画こそがふたりにとって一番大事なもので、しかもお互いはそれを相手に見せようとすら思ってない。けど偶然見てしまって、それで人生が動いてしまう。あの漫画で。でもあのへんな漫画がすごく大事な位置にちゃんとおかれていることが、この話全体をまばゆく輝かせていると思う。