20240219
オ/タ/クのチ/ン/ポ
うっぴゃ
やっぱ書けね~もうあきらめるか
最近は宇崎ちゃんの男がはじめてセックスをするときにプロポーズをするというのを見てウーンと思ったのであった。ほかにも、『ニセモノの錬金術師』や『化物語』なんかもそうなのかもしれないのだが、人間は性に対して誠実にふるまえるということへの根拠のない信頼にあふれていると同時に作品の構成としては明白にポルノ…というかギャルゲー的な構成になっている=全然誠実じゃない。
ある種のラディカルなフィクションを批評する際に「宙づり」という言葉が使われる時があって、これは物語の中で明確な答えを用意せず緊張状態を維持している…という意味で使われる。フィクションが与えるべきは強い答えによる快楽ではなくて、不明瞭な問いによるゆさぶりなのだ...などなど。ほかによく使われる言葉として「多声的」がある。これはなんだろう…ひとつの主体がまとまったことを喋っているのではなく、複数の主体が複数のことを喋っているって意味だと思う。よくわからんが。
性的な出来事に対して一貫した態度をとれるのだというタイプの態度をもった作品というのは多声的というもののまったく対極にある。もちろん先に挙げた作品内にもいろいろなキャラクターが登場し意見の対立があるのでそういう意味ではいろんな声が響いているのかもしれないが、ここでおれが言いたいのは各作品の主人公たちが性的なふるまいにおいて誠実な最善手を打てる存在として描かれていてそれは根本的にモノフォニーだよなということ。
作品のつくりとしてはハーレムとか奴隷女みたいな誠実さとかけ離れたものになっていて、いっぽうで主人公は作中のキャラクターにも引かれるくらい強烈に誠実な人間として描かれる。普通に考えてこれは消費者の倫理的な満足感のためにつくられた構造といえる。とはいえもしこの構造が、たんにマーケティング的に作られているとかある種の冗談として機能しているならともかく、純粋に誠実な人間の物語として描かれているし受容されているのではないか…?という空恐ろしさを感じる。2chで謎に住民が連帯していくときのような。
もちろんおれだってこの手の作品を十分に楽しんだのだから否定する気はない。とらドラ!とかラブやんとかね...おれが年をとったからこういう純粋さみたいなのを青臭く感じてしまう…という話なのかもしれない。
そういう意味では男が出てこないタイプのフィクションはもうそういうものだし地獄に落ちるんだという気持ちで見れるのでまだ見れる。っていうか昔からそういう側面があった。なぞの誠実な男が出てくるものについては常にイライラしていたかもしれない。っていうかkey作品について書いてるのかもしれないおれは。
多声的な作品と言えばおれにとっては初期舞城で九十九十九なんかが代表的だ。あれにはギャルゲー的な展開が露悪的に入れられていてけっこうスッキリした。
あとあずまんのソルジェニーツィン試論も読んだんだよね。よくわからんなりにかなり面白く読み、そういうことを考えてる中で宇崎ちゃんを読んでぐったりしたんだね。
しかし出てくる固有名詞が古い!死だ。新刊の出た位置原光zさんをゲストに招いたラジオ人生思考囲いを聞きましょう。あながち今回の文章と関係あるはなし!
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